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artienceグループの歴史

1896年の創業から今日までのartienceグループの歴史をダイジェストでご紹介します。

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日本インキ業界初の株式会社組織「東洋インキ製造」誕生

印刷インキで学術教育を普及する社会的責任の一翼を担う、生涯文盲であった創業者の強い意志

萌芽

創業者 小林鎌太郎
創業者 小林鎌太郎
当社グループの創業者―小林鎌太郎は、1875年3月横浜で生まれました。幼くして両親を亡くし孤児となった鎌太郎は伯母の家に引き取られましたが、わずか8歳で横須賀の洋服店に奉公に出されてしまいます。この時代、既に義務教育制度が施行推進されていたにもかかわらず、彼は小学校に通うことすら許されず、生涯文盲でした。

11歳の時、鎌太郎は周囲の反対を押し切って上京し、知人が銀座に開業した看板屋を手伝うことになりました。当時の銀座・京橋界隈は、多くの新聞社や印刷業者が集中し、印刷出版とマスメディアの中心地でした。また、欧米から導入された先進的な印刷技術と急速な経済発展のおかげで、広告宣伝や出版の分野で鮮やかなカラー印刷が流行しはじめていました。

この様子を目の当たりにした鎌太郎は、印刷インキにこそ将来性があると考えるようになりました。こうして1896年1月、20歳の鎌太郎は親戚から借金した50円(現在の20万円程度)を元手に、日本橋に部屋を借りて“賃練屋”を開業したのです。

鎌太郎の生家付近(横浜市花咲町、18世紀後半)

小林商店時代

当時、品質の高い印刷インキは高価な舶来品しかなかったことから、印刷業者は顔料やワニス、溶剤などの材料を別々に購入し、自身で練肉(材料を混ぜ合わせてインキを作ること)するのが主流でした。大手の印刷業者は練肉技術を有する優秀な印刷工を雇っていましたが、中小の業者は賃練り(練肉のアウトソーシング)を頼っていたのです。

鎌太郎もそのような賃練り行商人の一人として、練肉機を据え付けた荷車を曳き、客先で練肉を行いました。賃練りの注文がない時でも、練りあがったインキを缶に詰め、風呂敷で背負って得意先をまわるなど、行商に励みました。こうして創業からわずか3年で、鎌太郎は日本橋に店舗を構えるまでになりました。

賃練屋(イラスト)

小林商店時代のインキ色見本(1905年頃)

彼はもはや一介の行商人ではなく、「印刷インキ材料販売、小林商店」の看板を掲げる“店主”でした。起業家小林鎌太郎の手腕と将来性を評価した取引先や資産家は彼を経済的に支援し、店舗の近くにインキ工場を設立するなど、小林商店は印刷インキメーカーとしてその事業規模を拡大していきました。

東洋インキ製造株式会社設立

1905年、日露戦争後の爆発的な好景気の中で、印刷出版業界もまた急激に伸長しました。鎌太郎はこれを事業拡大の好機と捉え、輸入品を凌駕する高品質な国産インキの生産を増大させ、国内外の需要に対応したいと考えるようになりました。彼の計画が必要としたのは、優れたインキ技術者、大規模なインキ製造施設、事業規模拡大を支える充実した資本の3つでした。

そこで、当時の日本の印刷技術の頂点、造幣や証券印刷を担う大蔵省印刷局出身の技術者を工場長として迎えました。同時に、新宿に2,000m2を超える土地を確保し、当時の民営インキ工場としてはトップクラスの設備を持つ富久町工場を建設しました。この新工場は、インキの材料であるワニスや顔料を製造する機能も備えており、現在も続く「インキ原料からの一貫生産」のルーツがここにあります。

富久町工場外観(1910年前後)

富久町工場練肉部門(1910年前後)

一方、資本充実化の手段として鎌太郎が選んだのは、小林商店の株式会社化でした。創業時からこれまでに小林商店を支えてきてくれた資産家や取引先の賛同を得て発表した創立趣意書には、「国力の源である学術教育を普及させる印刷出版事業に対して、高品質の印刷インキを供給することで、その社会的責任の一翼を担う」という創業者としての意思が記されています。

創立趣意書(1906年)

東洋インキ製造本社(1910年頃)

インキメーカーから化学メーカーへ

顔料・ポリマーを自社生産化、多角化に乗り出す

「顔料からインキまでの一貫生産」への挑戦

当社は株式会社設立の頃からインキ製造における自製化率アップを積極的に進めてきました。初期の富久町工場では、比較的容易に製造できる一部の無機顔料を製造していたものの、その他の顔料や顔料を着色するための有機染料は輸入などに頼らざるを得ませんでした。

富久町工場顔料部門(1910年前後)

青戸工場顔料部門(1940年代)

1914年に第一次世界大戦が勃発すると、世界の染料・顔料の約8割を生産するドイツからの輸出が途絶え、価格が数十から数百倍に高騰し、入手が困難となりました。そのため世界中で色素研究が盛んになり、日本でも政府による産業振興施策が図られたのです。

当社では、原料の中で最も不足していた塩化バリウムの自製化を最優先課題として資源集中を図り、1917年に成功、量産化を果たします。その後も様々な有機染料や無機顔料など自製化ラインナップを増やしていき、ついに1920年、発色と耐久性に優れた「アゾ顔料」の自製化、量産に至りました。

フタロシアニンブルー顔料

フタロシアニンブルー顔料

1937年、当社は青色有機顔料フタロシアニンブルーの自製化に成功し、竣工まもない青戸工場で量産を開始しました。フタロシアニンブルーは非常に堅牢で鮮明な発色を持つ色素として、印刷インキだけでなく様々な色材に用いられました。それから半世紀後、フタロシアニンの様々な電気的特性が着目され、当社の電子材料分野への足掛かりの一つとなりました。

インキからポリマーケミカルへ

当社のポリマーケミカルの歴史は、インキ用のワニスの製造がその出発点です。戦前の国産インキのワニスはアマニ油や桐油、松脂などの天然油脂を原料に、それらを加熱重合させたワニスでした。しかし欧米では、1909年のフェノール樹脂の工業化以来、様々な合成樹脂が発明され、インキにも既に合成樹脂ワニスが用いられるようになっていました。

第二次世界大戦によって荒廃、貧窮した日本の復興の中で、1951年、当社は米国最大の化学会社インターケミカル社と技術提携契約を結びました。同時に東京・本所に当時最新鋭の設備を有した研究所を開設、米国の最新技術ノウハウの実用化を進めました。こうして翌年、当社初の合成樹脂型インキが完成しました。

技術研究所外観(1950年代)

当社製の合成樹脂型インキが使われた煙草「ピース」の外函

インターケミカル社からもたらされた技術はそれだけではありませんでした。顔料捺染剤(布地プリント用の顔料ペースト)、金属用コーティング剤(食品缶、飲料缶などの外面装飾と内面保護を行う塗料)、接着剤や粘着剤(感圧接着剤)およびその加工品である両面テープなど、技術導入は印刷インキの範囲を越えて、日本の高度成長期を支えた様々なポリマー製品に及びました。これらの技術導入をベースとして、市場に合わせた様々な改良や独自の製品開発を通じて、当社のポリマー・塗加工技術の礎が築かれていきました。

当社製の両面テープ「ダブルフェース」

当社製の感圧性接着剤「オリバイン」

事業領域の拡大とグローバルへの展開

技術を磨きあげ、多様な分野に高機能製品を展開

スペシャリティケミカルへの進化

1970年代以降、インターケミカル社との技術提携が解消された後も、当社は分子レベルでの樹脂設計や合成技術、塗膜形成技術などのコア技術を積極的に進化させ、時代のニーズに合わせた様々なポリマー製品を市場に提供してきました。

金属用コーティング剤から始まった樹脂コーティング剤は、多種多様な機能付与技術と融合し、今や人々の生活空間にあるあらゆるモノを表面保護するハードコート剤として使われています。また、日本の食文化の変化とともに発展してきたラミネート接着剤も、太陽電池やリチウムイオン電池の封止材料へと進化しました。

メディカル市場向け製品群

メディカル市場向け製品群

かつて印刷現場の作業用として導入された接着テープは、耐熱性や導電性が付与された自動車・エレクトロニクス分野向けの部品接合材料や、発色性と耐候性に優れた屋外用マーキングフィルム、ヘルスケア素材技術を組み込んだ経皮吸収型製剤(貼付型医薬品)やサージカルテープなどのメディカル市場向け製品へと進化しています。

一方、顔料・色材の分野でも、特殊な機能性顔料や超微細粒子の合成・分散技術を進化させていきました。フタロシアニンを用いたプリンタ用感光体材料やCD-R用記録材料は、当社がエレクトロニクス分野に参入し、光・熱・電磁気特性の付与技術を飛躍的に進化させていく先駆けとなりました。

FPD用カラーフィルタ材料は、一般家庭に液晶テレビが登場する20年近く前から材料研究に着手し、耐久性・透過性・色濃度に優れたカラーレジストを完成させました。その後、当社の主力事業の一つに成長し、今なお進化し続けています。

近年では、リチウムイオン電池の高容量化のキーマテリアルであるリチウムイオン電池正極材用導電カーボンナノチューブ(CNT)分散体や様々な特性を発揮する機能性分散体を成長市場に送り出しています。

液晶ディスプレイ用カラーフィルタ

電池用機能性分散体「リオアキュム」

加速するグローバル化

戦前は中国大陸・韓国・台湾に拠点を持ち、タイや東南アジアにも製品を輸出するなど、海外展開を行っていた当社でしたが、終戦とともに在外資産を喪失し、戦後復興のなか再出発を図りました。1947年、GHQ指令によって民間貿易が再開されると、当社も香港や東南アジアへの輸出を積極的に推進し、再進出の基盤を整えていったのです。

そして1963年、香港に駐在員事務所を設立し、これが海外再進出の第一歩となりました。2年後の1963年には香港にインターケミカル社との合弁会社Interchem-Toyo (South East Asia)社を設立、その後もタイ、台湾、韓国、アメリカに駐在員事務所や合弁会社を設立していきました。1970年代にはヨーロッパと北米、1980年代には東南アジア各国および中国に展開し、2000年代以降はインド、中東、トルコ、中南米など新興国市場への展開を進め、近年では海外売上高比率が半数に達するまでになりました。

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東洋インキグループは“artience”へ

「感性に響く価値」で心豊かな社会の実現を目指す

ホールディング制への移行と社名変更

企業規模が拡大していく中で、2011年、迅速な意思決定、フレキシビリティの高い事業執行、グローバル事業シナジーの最大化を目的に、東洋インキ製造は持株会社制へと移行しました。

さらに、2024年1月、変わりゆく時代のニーズ・課題を先んじて見つけ出し、「一人ひとりが主役となり、世界の人々に先端の技術で先駆の価値を届ける会社」へと変革するという強い決意を示すとともに、その実現に向け、持株会社の商号を「artience株式会社」に変更いたしました。

私たちartienceグループは、驚きや感動、ワクワク、心地よさなど、人の心に働きかけるような価値(art)と、確かな技術に裏打ちされた機能や高い品質に基づく信頼(science)を磨き上げることで感性に響く価値を創りだしていきます。この感性に響く価値によって、お客様そして社会が抱える課題の解決に貢献するとともに、心豊かに暮らすことのできる社会の実現を目指してまいります。